■第5回/「管理」vs「監視」!!

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    「末日聖徒イエス・キリスト(モルモン)教会」の指導者は、個人が社会人として自立し、教会員として正しく生活できるよう助ける為、必要な様々な集会を企画して開催する。

     

    その手段は無限にあり、安息日に決められた集会以外、基本が中核にあれば全ての集会は変幻自在である。その基本とは「人」であり、それを支えるのが「信仰箇条」である。それさえ外れなければ、何を企画して実行しても自由である。

     

    その逆が、教会の集会に人が必要で、そのためにメンバーを集めるプログラムだ。この場合、プログラムが中核の基本になり、人はそれを支える駒に過ぎない。前者と比べると見事なまでに主従が逆転している。

     

    前者がアメリカなど世界の末日聖徒の集会であり、後者が日本の末日聖徒の基本的な集会である。

     

    前者の場合、集会の全体を柔軟に進行させる指導者が必要で、統括的な意味で「管理者」と言われている。

     

    管理は「control」「 supervision」「management」「 administration」「custody」で、管理者を「Administrator」「superintendent」というように、監督, 館長, 監督者, 管理者の意味を持つ。

     

    一方、プログラムが主体で人が従の集会では、最重要の集会に間違いが起きてはならないため、指導者の言うことを聞く人材で中核を固めていく。

     

    こういう集会を統括することを管理とは言わず、「監視」という。自分たちの許可なく勝手に自由なことをされてはたまらないからである。

     

    それでも日本の教会では「管理者」というが、彼らが案心してゆとりを見せるのは、やることが決まっている安息日の「聖餐会」や、言うセリフも動きも決まっている「神殿」ぐらいかもしれない。

     

    監視は「Monitoring」「surveillance」というように、サーベランス的な意味が強い守衛、看守する意味で、監視者(監視人)は「Observer」「guard」といい、(犯罪行為を含む)間違った事に対応する監視人の意味合いがある。

     

    アメリカなど世界中の末日聖徒の教会は、その名の通り「信仰箇条」を座右の銘とする指導者が基本であるため、管理は教会員の個人個人が自己責任で対応(これを「教授監督」という)し、管理者は大きな枠で全体を見守ることで対応している。

     

    その姿は自由度のある羊の群と共に歩く羊飼いと同じである。これが「禁止事項以外はやってよい」とする「管理の基本」である。

     

    一方、官僚主義者達が必要もない権力で掌握する日本の教会の場合、「マニュアル」や「手引き」という「」にメンバーを閉じ込めて監視せねばならない。

     

    自由に意見を言う人間が出てきたら、官僚主義体制を壊され兼ねないからだ。

     

    ので、看守と同じ「監視」で対応するようになる。

     

    そのためには壁が必要で、メンバーをそこに閉じ込めて監視することで教会を維持していく。自由に企画し運営する集会などあってはならず、例外は絶対に許してはならない。

     

    例外を与えたら最後、その一穴が‟蟻の一穴”になるかもしれず、官僚主義者達は人が起こす混乱を異常なまでに恐れる。

     

    これが「許可されたこと以外やってはならない」とする、教会公務員(全てがそうなるのではない)の成れの果てが陥る「監視の基本」である。

     

    日本の教会で「日曜学校」でも「神権会」でも「扶助協会」でも構わない、教師に「羊飼いが飼う羊はどんな所で飼われているのか?」と尋ねてみればいい、おそらく‟柵”で囲まれた所で安全に飼われていると十人中九人までが答えるはずだ。そうでない教師がいたら、稀にみる優秀な教師である。

     

    「聖書」にある羊飼いは、アブラハム(実際に羊飼いだった)のように、柵など無い広大な草地や高原で飼うのが常識である。

     

    柵が無いので羊飼いが必要なのであり、羊飼いとは自由奔放に動き回る羊の群を、自分も一緒に移動しながら見守るのが役目となる。

     

    羊の自由を認めながら大らかに導くこと、これが「管理」の基本である。

     

    柵など無いので群から子羊が迷い出るわけで、いい羊飼いは九十九匹の羊を残してでも子羊を探しにいくのは、周囲に柵が無いから木々に脚が挟まったりしないよう、崖から落ちないように探し求めるのである。

     

    なぜそうするかというと、羊(人)を最優先にするのが羊飼い(教会指導者)の職務だからだ。

     

    その代わり、羊たちは自由な処で自由に草を食むことが出来る。羊を閉じ込めた所で、餌箱に入れられた草を食べるのが羊ではなく、自由に行動するのが羊である。管理されこそすれ監視される謂れはない!!

     

    「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(「マタイによる福音書」第18章12〜14節)

     

    日本の教会公務員(その中で腐った者)を中核とする、官僚主義者と老害達は、神の方法の逆をやりながら、自分たちの権威を維持拡大させてきたと断じてもおそらく間違いないだろう。

     

     

     

    日本の教会を語るのに、典型的な例があるので紹介しよう。

     

    日本の老害は、教会の正式なネットワークである「神権ルート」以外に、独自の「老害ルート」を持っている。これを「老人ネットワーク」と言い直しても構わない。

     

    神権ルートは、アメリカの地域会長の管理下の伝達ルートの為、下手な情報を流すと網に引っ掛かる危険がある。そんな場合、老害は「老害ルート」や「老人ネットワーク」を使う。

     

    多くは同窓会的、個人的、仲間的つながりの伝達ルートで、携帯電話の「電話帳」が各々つながり合って、日本中で教会の裏ネットワークが出来ているといってもいいだろう。

     

    同様のものは若い人たちにもあり、「line 」「twitter」「facebook」「mixi」でつながり合っている。しかし、何が決定的に違うかと言うと、「老害ネットワーク」は「同調圧力」の専用ツールで、神権ルートより強力なツールになっている。

     

    数年前、大阪の某ワード部で飛鳥昭雄の「講演会」を催す形で動いていた。そこへ、「飛鳥昭雄を使うのは如何なものか!!」という神奈川県の老人Waと、鎌倉に住む、Waの運転手役のYaが出てきて、大阪の教会の老人Maに連絡を入れて中止させたのである。

     

    これが神権ルートではない老人ネットワークの実態で、ワード部の監督会の力より強力な発言権を持っている。彼らは現役を退いているが、「院政」のように時に応じて顔を出し、現役の教会指導者の決定を覆していく。

     

    日本の教会指導者でも、老害の「監視」「同調圧力」に逆らうことが出来ないのが現実である。若い教会指導者達は、こういう経験を経て、官僚主義を学び取りながら、新たな「老害患者」になっていく。

     

    これが日本の教会の「負の連鎖」「負のスパイラル」である!!

     

    これと同じことをWaが埼玉県の坂戸ワード部主催の「飛鳥昭雄のファイアサイド」で行ったが、完全に失敗する。

     

    なぜなら、その集会はアメリカ人の地域会長、アメリカ人のステーク会長、アメリカ人の監督が管理していたからである。「監視」ではなく「管理」が勝利した瞬間である。

     

    このように、日本人の教会指導者の殆どは「老害圧力」に疑問も持たず、疑問を持っても逆らうことが出来ず、彼らの全国的な「監視」の下に置かれながら、言いなりになっている。

     

     

     

    「日本の(教会の)老害圧力」サイト↓

     



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